こんにちは。秋田市議会議員の宇佐見康人です。
イージス・アショアを秋田市に配備する可能性があるとの報道がなされ、私たち市議会議員のもとへも連日のように問い合わせや要望がきています。
秋田市のことだけを考えれば配備を突っぱねるべき理由も多くあるのでしょうが、日本全体のことを考えるととても悩ましい日々を過ごしています。
11月8日から10日にかけて、全国都市問題会議へ出席するために沖縄県那覇市に行ってきました。
沖縄では、頻繁に自衛隊機や米軍のヘリが低空で飛行をし、沖縄の人にとっては危険と隣り合わせの生活をしているんだなと実感したところです。日本の国土だけでなく、日本海や東シナ海の防衛を考えた時、沖縄に基地を配備するというのは賢い選択なのかもしれませんが、先日読んだ矢部氏の本のことを考えると沖縄への過剰な基地負担はとても複雑な気持ちでした。また、最終日はフライトまで2時間ほどあったのでひめゆりの塔まで足を運びましたが、現地でその悲惨さを見ると、私たち本土の人間が離れた沖縄から守られているというのを決して忘れてはいけないという思いにもなりましたし、これ以上沖縄に対して過度の負担を求めていっていいのかどうか帰りの飛行機の中、そして帰ってきてからも頭から離れませんでした。
特に、首都圏に暮らしている人は防衛だけでなく、エネルギーや食料に関しても同じことが言えると思います。地方で作られたものが首都圏に運ばれ、消費されます。エネルギーも食料も作る人がいなければ私たちは生きていくことすら出来ません。
地方の人口減少も構造は一緒です。17歳18歳まで地方で育った子達が、首都圏へ行き働く。
顔が見えないどこかの地で、誰かが私たちの代わりに負担をしてくれているんだということを多くの人が忘れてしまった時、我が国は本当に間違った方向へ進んでいってしまうのではないでしょうか。
例えば、原発が本当に安心安全のものなのであれば、東京湾をさらに埋め立てて東京のエネルギーは自分たちで作るという意見があってもいいはずです。地方にはお世話になっているから、最終処分場は東京に作りますという発言があってもいいはずです。
しかし、それらの言葉一向に出ないのは、心のどこかで「もしかして」という一抹の不安があるから人が少ない地方へ負担を押し付けているのではないでしょうか。
日本の防衛を考える時に私たちは以下の点も同時に考慮しなければいけません。
・日米安全保障条約の内容
・日米合同委員会の存在
・砂川判例の存在
・憲法9条と76条
私も全てに詳しいわけではないですし、現在も時間を見つけて関連事項について調べている真っ最中ですが、一旦それぞれのポジショントークをやめ、事実に基づき感情優先の議論から脱却しなければいけない時期にきているのだと思います。
先日も書きましたが、今回の定例会ではイージスアショアの配備についての請願陳情が出されています。また、11日から始まる一般質問でも同問題に対して質問がされるようです。私も、自分の考えをさらに深めしっかりと意見表明をしたいと思います。
私は今33歳です。あと半年で34歳になります。私の娘は今2歳です。詳細な年齢は書きませんが母もいわゆる「高齢者」の仲間入りをしました。父は戦国時代で言うと大長老の部類に位置する年齢です。でもみんな年齢を感じさせないほど元気に過ごしています。
第二次世界大戦が集結してから73年が過ぎようとしています。戦前、戦中、戦後を生きた祖母は96歳になりました。そして今も元気に暮らしています。
父も母も戦後復興を遂げ高度経済成長期、そしてバブルの時代を生き、今も元気に暮らしています。
私は、バブルの時代を直接は知らない世代です。なんとなくそんなのあったなくらいで、経験しているのは生まれた時から「不景気」のみです。
戦後70数年が経ち、私たち日本人は多くのことを経験しました。そしてそこから学びました。
軍隊があるから戦争が起きるのではありません。一部の人たちに権限も責任も何もかも任せてしまうから戦争が起きるのです。
私たちは、私たちの頭でしっかりと考え行動しなければいけません。戦争という悲惨な状況になってしまった時に、私たちは今のように冷静に物事を見る事など決して出来ません。上からの命令があればそれに従うだけになります。そこに人間の感情や思考など存在しません。
ナチス戦犯の裁判レポートを書き世界を震撼させたハンナ・アーレントという哲学者がいます。映画にもなっていますのでご覧いただけると幸いですが、彼女は「考える事で人間は強くなる」と教えてくれています。同時に「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」とも教えてくれています。
誰かに任せるということは止めましょう。なぜ賛成と思うのか、なぜ反対と思うのか自分自身で考えましょう。誰かに言われたから、あの人が言ってるから決めてしまうのは本当に危険なことです。
賛成、反対に関わらず、自分自身で考えるきっかけとなることを切に願っています。